小部屋1(sub2-R1)

  1. 技術とは何か?
  2. コツとは何か?
  3. コツはどのようにしたら身に付くのか?
  4. 知識技術と体験技術
  1. 技術とは何か
    技術は技という言葉と関連づけて考えていくとわかりやすくなります。技とは柔道で言えば背負い投げなどですし、水泳で言えば(水泳の場合は泳法といいますが)クロールなどを指します。縄跳びでは二重跳びなど、鉄棒では逆上がりなど、テニスではボレーなどを言います。すなわち、特定のスポーツ種目で展開される運動形態についての名称をいいます。日常的な運動で言えば歩く、走る、投げるなども技と言えます。
     では技術とはと言うと、ある技を成し遂げるために必要不可欠な本質的な要素(ポイント)と考えるのです。それは本質的な要素ですから、そんなに多くはありません。
     つまり技術を、技という時計を動かすための歯車と考えるわけです。ですから、時計を動かすためには全ての歯車(技術)ができあがっていなければなりませんし、それらをうまく組み合わさなければなりません。運動の場合はさらにタイミングよく組み合わせることが重要となってくるでしょう。この技術は個人個人によって異なるものではなく、ある技を成し遂げるためには全ての人にとって共通に身につけるべきものです。すなわち、主観的なものではなく、客観的なものです。ですから、言葉で伝えることが出来るし、定義することも可能です。したがって、技の全体を言葉で正確に表現することは、ほとんど不可能ですが、その技を構成している技術は言葉で表現できるし、したがって言葉で伝えることも可能となります。
  2. コツとは何か
    コツとは歯車の例えで言えば、技術の歯車をタイミングよくかみ合わせるための、自分の身体が了解する「あるやりかた」で、その「あるやりかた」に意識を集中させると歯車がうまくかみ合います。その「あるやりかた」とは力の入れ方だったり、身体の動かし方だったり、タイミングの取り方だったり、もしくはそれらの複合的なものだったりするでしょう。それらは全ての人に共通するものではなく、極めて個人的な主観的なものです。すなわち、自分だけが了解する自分だけのものです。ですからとても言葉では表現しきれないのです。無理に表現することはできますが、言葉にしたとたん、それは自分の感じているコツとは別物になってしまうでしょう。
  3. コツはどのようにしたら身に付くのか
    まず、言語による技術論を知っただけではコツは身に付かないことは多くの人が体験していることでしょう。技術論は自分の外にあるものです。学習者はそれを身体化していって初めてある運動が出来るようになります。身体化していくには技術論がわかっただけではだめで、うまくいかないある演技の中で、その技術を身につけるための感覚的コツのようなものを実践の中で試しながら見つけていく必要があるでしょう。そのような感覚的コツはどのようにして身につけていったらいいのでしょうか。 
     その方法論は目下研究中。
     少なくとも技術論が頭でわかっただけではだめで、その技術を自分の感覚に基づいて見いだしうる映像を、つまり他でもない、この自分が感覚的に了解できる映像を自分のイメージの中に生き生きと保存させることのほうがより重要と考えます。
  4. 知識技術と体験技術
    自分の技術を高めようとする場合、我々は体験(実践)することから始めるしかないと思います。その前に本を読んで知識を得たとしても、本当の練習はまず動いてみることから始まるはずです。ここで、体験してみたもののまだ思うように出来ない段階(技術が身についていない段階)をaとしましょう。そして技術が身について出来るようになった段階をA(「体験技術」と呼んでおきます)とします。そしてその人が、獲得した体験技術なり感覚なりをなんとか人に伝えようとして、それを言語化したものを「知識技術」と呼び、それをBとします(雑誌等に載っている技術論は全てBです)。つまり体験から始まりa→A→Bという流れが出来ます。人に教えるのでなければA段階で十分です。しかし、人に教えようとする場合はどうしても自分が獲得した体験技術なり感覚なりを言葉にして伝えようとしてBを作り出そうとするでしょう。

     一方、上手になりたいと思っている人は当然上手な人や指導者の言うことが気になります。指導者の知識(=B)を持つことによって上手くなるだろうと思うのは当然のことだと思います。そしてBを沢山持とうとします。ところが、いくら沢山Bを持ったとしても、その人が実際に滑り始めるときは、やはりaから始めるしかないのです。つまり技術獲得の流れはa→A→Bであって、その逆ではありません。
     ここで私が従来から提案している方法は上手な人のAを沢山(少なくとも数十回以上の単位)観察することによって(ただし、その場合のAは自分とかけ離れていないレベルである必要がある。とんでもなく上手い人の場合は易しい斜面で技能レベルを落として滑ってもらう)、aよりはAに近いa’から始められるのではないかという仮説です。

     すなわちa→a’(ここからスタート)→Aを目指す。その場合、Aの観察で盗むべきものはa’(体験)であってB(知識)ではありません。なぜなら技術獲得の流れはあくまでもa→A→Bだからです。ところで、観察という行為も一種の体験です。体験している以上、何かを発見しよう、得ようという気持で観察していれば、そしてその体験を積み重ねていけばaではないスタート地点a’が得られるのではないでしょうか?幼稚園の子供などは、いきなり逆上がりが出来ることはそれほどまれではありません。しかし、逆上がりを見たこともないのに1回見ただけで出来てしまう子供はまずいないでしょう。

     それではBは全く役立たないのでしょうか?そういうことはありません。
    BはAの観察のために役立てるのです。観察対象のAはあくまでも自分の体験技術ではなく、他人の体験技術ですから、ただ何となく眺めていてもそこからは何も見えてこないでしょう。見て、そこから何かの情報を得るには知識が必要であることは既に述べている通りです()。知識は観察して、そこから何かを見抜いたり、発見したりするためにこそ役立てるべきものです。ですから、知識を集めることも無駄ではありません。でもその後、その知識と関連した実際の映像を見ながら、他人のBと他人のAから新たな自分のa’を作る努力をしなければ、その知識は文字通り絵に描いた餅となるでしょう。(なお今回の拙論は筑波大学、佐野淳先生の「スポーツ技術の運動感性学的考察」よりヒントを得たものであることを付け加えておきます。)