小部屋2(sub2-R2)
- 「見ているからと言って見えているとは限らない」
- 「見えるためには知識が必要」
- プロには見えて素人には見えないのはなぜか?
- 見ているからといって見えているとは限らない
教える場合でも教わる場合でも、言語による伝達手段の他に、他者の動きを見ること、見せることは何にもまして、よく行われていることだと思います。今日は「見ること」の限界について考えたいと思います。かっこよく言うと映像的認識についての考察です。人は「見る」ことで一体何がどの程度「見える」のでしょうか?まずは「見る」ことと「見える」こととは違う、ということから。つまり、「見ている」からと言って「見えている」とは限りません。実際の所は見えていないことの方が多いのではないでしょうか。スケートの3回転ジャンプには7種類あるそうですが、我々が例えそれらのジャンプを見ても、みな同じように見えるでしょう。体操競技の跳び箱運動の採点者は一瞬の動きから様々なことを見る必要がありますが、我々にはそれらはほとんど見えません。つまり、同じ対象を見ていても見る人によって、その見え方は大きく異なってきます。それはなぜでしょうか?
- 見えるためには知識が必要
実は「見て」、「見える」ためには知識が必要です。「モノが見える」のもモノについての知識があるから見える、ということになります。我々の目の前には様々な物が見えていますが、それらも様々な物についての知識があるから、見えているということです。
つまり、極端な話、赤ちゃんはそれらのついての知識はありませんから、我々とはおそらく見え方はかなり違うはずです。天気図を見て、そこから様々な情報を見抜くためには天気図についての知識が必要になってきます。同じことは素人である我々がレントゲン写真や囲碁の局面から何が見えるかを想像してもおわかり頂けると思います。つまり、ある対象を見て、そこから、どれだけのモノやコトが見えるかはそれらについての知識の量によって変わってくる、ということです。スキーの技術についての知識が浅かったり、間違っていたりしたら、例え教師の滑りやビデオをいくら見ても、そこから得られるものは非常に少ない、ということになります。
- プロには見えて素人には見えないのはなぜか?
知識以外に視覚以外の諸感覚(聴覚、触覚、嗅覚、筋感覚、運動感覚等)も重要な役割を果たしています。常識的には、見るということは視覚のみで見ている(網膜に写った像を見ている)と思いがちですが、実は視覚の背景には様々な諸感覚が動員されて、ある「見え」が生じているのです。例えば盲人は視覚以外の諸感覚で世界を見、盲人の鍼灸師は触覚で針を刺す位置を探し当て、器械体操の審判員は自分の運動感覚や身体感覚などを動員して、選手の演技を見ているわけです。ですから、その道のプロと素人とでは見え方が全く違うのは当然といえば当然です。見る場合、どうしても視覚が強く働きやすいため、他の諸感覚は隅に追いやられがちですが、それでは深いところの見えは生じないわけです。教師の滑りやビデオを見るときは、自分の筋感覚や運動感覚を最大限働かせて、実際に自分が滑っているように見、そして感じることが大切です。