人はいかにして新しい運動を覚えていくのか:PART4
−人はどこまで上手くなれるのか?−
額谷修二
1.続バケツ理論(バケツが一杯になった後の説明)
PARTUでは、粗形態ができ上がるまでの経過をバケツに例えて説明してきた。すなわち、バケツから水がこぼれた瞬間こそ粗形態(第1段階)ができ上がった瞬間であり、そのような瞬間はまさにバケツから水がこぼれ始めるごとく突然にやってくる。それでは、その後の上達の過程はどのように進んでいくのだろうか。いよいよこの考察の最終段階に入っていこう。
PARTUでも述べているように、実は最初の「できた!」は「まぐれ」に他ならなかった。しかし、そのまぐれも今までは起きなかったまぐれであり、バケツが一杯になり(準備が整い)、起きるべくして起きた「まぐれ」であった。そのような瞬間のことを、ここでは技の「発生」と呼ぶことにする。その後、その発生は「できる」、「できない」を繰り返しながら次第に確実にできるようになっていく。その過程をここでは技の「定着」と呼ぶ。すなわち、技の発生は機械的反復により技の定着へと進むことになる。更に機械的反復を繰り返していけば、それは技の自動化へと進んでいくことになる。すなわち、技は機械的反復により「発生→定着→自動化」へと進んでいく。
そこで、もし粗形態が定着した段階で、自動化に至る前に機械的反復ではなく、内省的反復を繰り返していけば、いつしか今度は精形態(第2段階)の発生にたどり着くようになる。それはあたかも最初のバケツが一杯になった後、さらに第2のバケツを用意して、それに水をそそぎ込んでいくことに例えられる。第2のバケツを用意することは、もっと上手くなりたいと思って内省的反復を繰り返したり、指導者に教わったりして、より上のレベルを目指すことに他ならない。そのような努力により、学習者はまたある日突然、第2段階の精形態の発生に至り、さらに定着へと進んでいくことになる。そして、さらに上を目指すことにより、すなわち第3のバケツを用意することにより、今度は第3段階の精形態に進んでいく。このようにして、より上のレベルを目指して内省的反復を繰り返していく限り、当然年数はかかるかもしれないが、1段ずつ上位のレベルへと上昇していくことになる。
ただし、新しいバケツは次第に大きなバケツになっていくことも心しておいたほうがよいだろう。どういうことかと言うと、上位レベルに到達すればするほど、次のレベルに到達するのはより困難となり、より大きな努力と、より長い時間がかかるようになる。すなわち、「↑」は上位レベルに進むにしたがって長く高い壁となって立ちはだかってくる。以上、これまで述べてきた上達のプロセスを図式化すると図1のようになる。

2.バケツに水がたまっていくプロセスの説明
これまで、上達のプロセスにおける新しいレベルへの到達は、あたかもバケツから突然水がこぼれ始めるように、ある時突然やってくるという風に説明してきた。しかし、もう少し掘り下げて考えてみると、次のような疑問が浮かぶ。すなわち、バケツに水をためている、その途中経過においては、まったく上達は見られないのか、という疑問である。実際には少しずつ上達していくというケースももちろんあるだろう。例えば、逆上がりや縄跳びや一輪車に挑戦する子どもの練習過程における習熟のプロセスを観察してみると、全くできそうにない状態と、もう少しでできそうな状態とは明らかに区別できる。
実は、バケツに水がたまっていくということはたとえ自分では気がつかなくても、身体の内部では確実にある変化が起きている、と考えられないだろうか。つまり、バケツの中で水が増えているかぎり、ある種の変化は起きているはずである。ただ、変化は起きているが、それが結果に結びつかないだけなのである。そこで、バケツに水がたまっていく途中における、そのような変化を図式化すると図2のようになる。

上の図2ではbーd間が下位レベルの形態の発生から定着に至るプロセスを、d-e(aーb)間がバケツに水をためている途中のプロセスを表し、e(b)に至ってようやく新しい上位レベルの形態が発生し,f(c)に至って定着に達したことを表している。以下、このプロセスをピアジェの発達理論で説明してみたい。
ピアジェはまず学習の内容により、活動の学習と認識の学習とを区別する。活動の学習とは結果として、いわゆる新しい習慣や運動ができるようになる学習であり、認識の学習とは論理や形式や概念を操作する思考的学習である。そして、そのいずれの種類の学習も行為(シェマ)の変容という形をとってあらわれる、としている。 すなわち、活動の学習においては活動のシェマが、認識の学習においては認識のシェマが変容していくことになる。そして、そのシェマの変容をもたらす生体の機能として「同化」機能と「調節」機能をあげている。同化とは自らのシェマを外界に適用すること、すなわち新しい環境に「自分のもっている活動や操作で反応すること」であり、調節とは自らのシェマを変容して外界に適応すること、すなわち「新しい環境に対して、自分のもっている活動や操作を変えて反応すること」である。
つまり、活動の学習に関して言えば、主体は操作の対象であるボールや縄跳びや一輪車を既存の活動のシェマでもって対処(すなわち同化)しようとする。そこでもし、既存のシェマで対処できるときは再生的同化により、その対象を操作してあそぶことができる。しかし、既存のシェマでは対処できないとき、主体はそのシェマに別のシェマを融合させたり、新たな要素を取り入れて再統合したりして、そのシェマを変容する(=シェマの調節)ことによって、なんとかその対象を取り込もうとする(=対象の同化)。このように、主体はシェマの調節と同化を繰り返しながら、次々とそのシェマを豊かにしていくことにより、活動の可能性を広げていくことになる。すなわち、発達とは同化と調節の漸進的均衡化である、というのがピアジェの考え方である。
以上のような考え方に基づいて、図2を解釈すると以下のようになる。まず、aーb間は同化不能により調節が優位になり、同化と調節の不均衡状態にある。b点において初めて同化が発生するが、それもまだ十分ではないため不均衡状態が続く。そして、c点に至ってようやく同化と調節が均衡状態に達し、同化と調節がバランス良く、相補的に働くようになる。次に、d点において新たな課題に挑戦し始めると、再び同化不能に陥り、不均衡状態となる。そして調節を繰り返すことによりe点にいたって再び同化の発生をみることになり、f点に至って、再度より高いレベルでの均衡状態に達することとなる。このようにして、同化と調節の不均衡状態と均衡状態を交互に繰り返していくことにより、主体はより高いレベルでの均衡状態を獲得していけるようになる。もし、あるレベルでの均衡状態で、その上を目指さず、再生的同化が優位になってしまうと(その状態を遊びという)シェマの変容は起こらず、上達はそのレベルでストップしてしまう。
3.人はどこまで上達できるのか?
「優れた才能はもって生まれた素質によるものか、それとも環境によるものか?」はスポーツや芸術の世界にあって、いつも問題になるテーマである。どうも人はどちらか一方を選択したいらしい。しかし、この設問は最初の問い方自体に問題があると言わざるを得ない。「AかBか」と問う前に、まずどんな要因が関係してくるのかを問う必要があるだろう。その次に、それらの要因がどのように関係してくるかを考える必要があるだろう。
結論を先に述べるならば、どこまで上達するかは、決して素質とか才能だけで決まるものではない、ということを強調しておきたい。生まれつきの素質のようなものが、仮にもしあったとしても、それは数多くある要素の1つにしか過ぎない。
もっと重要なことは、本人がそのことにどれだけの価値をおき、他のことをどれだけ犠牲にできるか、そしてまた、どれだけそのことに対して強い興味と強い上達意欲が長期間にわたって持続できるかどうかにかかってくるだろう。指導者の影響ももちろん無視できない。
すなわち、その人が最終的に到達するパフォーマンスレベル(P)は以下のような複数の変数(要因)のかけ算になることを提案したい。
パフォーマンス(P)=素質×環境×指導者×主体性×興味の持続×価値×上達意欲×努力時間
×開始時期
この式は、たとえその人の素質が凡庸な小さなものであっても(才能があまりなくても)、他の条件次第では優れたパフォーマンスレベルに達することも可能であることを示している。かといって、これだけ多くの変数(要因)を、ある程度のレベルで揃えることが非常に難しいことは言うまでもない。しかも、スーパースターになるには(Pの値を極めて大きな値にするには)、その中のいくつかの変数が並外れた大きな値でなければならない。そのような理由で、天才と呼ばれるようなスーパースターは極くまれにしか出てこないのである。
テニスのロジャー・フェデラーやバイオリニストの五嶋みどりに代表されるような、人間の人間離れした超人的なパフォーマンスは、とても素質や才能だけで語れるほど単純なものではない。
| 人はいかにして新しい運動を覚えていくのか T:機械的反復と内省的反復 |
人はいかにして新しい運動を覚えていくのか U:初めての「出来た!」 |
人はいかにして新しい運動を覚えていくのか V:技の粗形態と精形態、 |
人はいかにして新しい運動を覚えていくのか W:人はどこまで上手くなれるのか |
運動を覚えていくのか X:運動感覚をともなった自己運動イメージの獲得を目指して |