人はいかにして新しい運動を覚えていくのか:PARTU
ー初めての「出来た!」ー

人はいかにして新しい運動を覚えていくのか
T:機械的反復と内観的反復
人はいかにして新しい運動を覚えていくのか
U:初めての「出来た!」
人はいかにして新しい運動を覚えていくのか
V:技の粗形態と精形態、
人はいかにして新しい運動を覚えていくのか
W:人はどこまで上手くなれるのか
人はいかにして新しい
運動を覚えていくのか
X:運動感覚をともなった自己運動イメージの獲得を目指して
<人はいかにして新しい運動を覚えていくのか>:PARTU
ー初めての「できた!」(運動発生に関する「バケツ理論」)ー

1.新しい動きはある時突然できるようになる。
 自分の過去の運動体験やスポーツ体験を思い起こしてみると、例えば自転車に初めて乗れるようになったときのことや、鉄棒の「逆上がり」ができずに何回も練習した人は、そのほとんどが突然できたことに気づくだろう。何度も何度も練習しているうちに、ある時突然「できた!」が訪れるのである。それまでは、全くできそうにもなかったのに、このままだと一生できないまま終わってしまうのではないかと思っていたのに、ある時突然できるようになる。この時の喜びは何ものにも代え難いものである。このような現象はどのように説明できるのだろうか。
 私はこの現象をバケツを用いて説明してみたいと思う。練習する過程をバケツにホースで水を入れていく過程に例えるのである。まずバケツは自分の身体に例える。水を入れていくという行為は練習に他ならない。
 このようにして、ホースで水を入れていっても満杯になるまでは外側からはどれだけ水が溜まっているかはわからないはずである。つまり、上達の途中にあっては練習の成果が目に見えるようには現れないのである。できるようになるまでは自分でも上達しているようには感じられないし、他人から見ても上達しているようには思えない。
 しかし、水を入れ続けていく限り、確実に水は溜まっていくのである。したがって、あきらめずに、水を入れていく努力を続けていくと、いつかはバケツが満杯となり、水がこぼれる瞬間がやってくる。その瞬間こそ「できた!」という瞬間である。あきらめずに続けていけば、そのバケツがどんなに大きなバケツであろうとも、いつかは必ずこぼれる瞬間がやってくるのである。しかし、そのためにはある条件が必要になってくる。

2.努力すれば必ず成果が上がるとは言えない!
 ここで注意しておかなければならないことは、努力さえすれば必ず水は溜まっていくとは限らない、ということである。もし、バケツやホースに穴があいていたら、いくら水を入れ続けていっても無駄なように、その努力は正しい努力でなければならない。
 もし、一生懸命練習しているのに一向に上達しないとするなら、自分の練習方法に問題がないかどうかを考えてみる必要がある。自分でわからなければ指導者やその道の専門家に尋ねればよい。バケツやホースの穴はなかなか自分では見つけにくいものである。自分で見つけられないときは穴を見つけるのが上手な人=指導者に見てもらうのが1番である。バケツやホースに穴があいている場合はまずその穴を塞がない限り、水は一向に溜まっていかない。すなわち、いくら努力をしているつもりでも、その努力が間違っていたら何にもならないということである。間違った自己流のフォームでいくら練習しても、なかなか上達は望めないだろう。そればかりか、ますます悪い欠点が固まっていくのみである。

3.上達の早い・遅いはなぜ生ずるのか?
 ところで、ある人はすぐできるようになり、ある人はなかなかできるようにはならないことがある。そういう個人差はどのように説明したらよいだろうか。
 それは過去の遊びや運動経験の違いから生まれてくる。すなわち、比較的早くできるようになる人は、過去に既に類似の運動経験を積んでいる人なのである。つまり、始める前からバケツにはある程度の水が溜まっていたのである。 例えば、過去に羽ねつきや野球などをやった経験のある人がバドミントンを始めようとするときは、既にバドミントンに必要な運動経験や運動技能がある程度既に備わっているため、当然上達は早くなる。しかし、その人がスケートやスケートボードのような滑っていくものに乗っていくタイプの遊びを全くやったことがなければ、スキーを覚えようとするときはまったく空のバケツから始めなければならなくなる。
 このように、上達が早いか遅いかは過去の遊びや運動経験の違いによるものであり、俗に言う運動神経の問題ではない。そういう意味で幼少年期の運動遊びや運動体験は非常に重要である。幼少年期の多様な種類の遊びは様々なスポーツにつながるスポーツ身体というバケツに水を蓄えておくことになるのである。

4.意欲と集中力
 いくらホースを持っていても、そのホースがバケツに向いていなければ水は当然入っていかない。このことは、必ず上手くなってやるという強い意欲がなければ、なかなか上達しないことを意味する。
 その意欲の強さが上達の早さを決定するといっても過言ではない。なぜならその意欲が非常に強ければ、上達するための様々な方法や手段を自ら考え、探し求めるだろう。そのような人は毎日バケツに水を入れようとするだろうし、指導者がいなければ捜そうとするだろう。そして何よりも、途中で水を注ぐのを止めたりはしないだろう。
逆に、別に上手くならなくてもよい、単位さえ取れればそれでよい、その時間さえ何とか終わればよい、という考えで体育の授業などを受けているとすれば、うまくならないのは当然である。そのような人はホースを持っているだけで、水を入れようという気持ちがないので、ホースの口がバケツに向かず水は全く溜まっていかない。身体は一応授業に参加しているが、心(学ぼうという意欲)は授業に参加していないのである。
 多くの場合、上達意欲のない人の練習は、集中力がなく、遊びになっている。遊びとは言うまでもなく楽しむことが目的である。自分のレベルを上げることが目的ではなく、今のレベルで楽しむことが「遊び」に他ならない。したがって、動きを修正しようとか、自分の能力の最大限を発揮することはまずない。逆に女子学生などで授業中に相手が精一杯の動きを見せると「あの人こわい」などと言う。自分は精いっぱい動こうとしないで、相手が真剣なのを「こわい」と言ってしまう。
 また、同じ意欲があっても実際の練習場面で集中力の差は上達スピードに大きな差となって現れるだろう。バケツとホースの口がかなり離れている場合、よほど集中しないと上手に水は入っていかないだろう。ましてやホースを振り回したりして遊び始めてしまうと水は全く入っていかない。

5.バケツ理論の限界
どんな理論や法則にも必ず限界や適用できる範囲があるように、このバケツ理論にも当然適用の限界がある。スポーツ運動の上達の法則を、この例えで全て説明できるわけではもちろんない。この例えは初めてできた瞬間までの努力の経過を説明するものである。それ以降の運動の習熟過程を説明するものではない。
 実は、初めての「できた!」はまぐれなのである。いわゆる偶然にたまたまできてしまったのである。そのようなとき、できた当人もなぜできたのかはわかっていないし、できるための「こつ」も自覚できていない。したがって、もう一度やってみようとするとできないことが多い。この現象はバケツ理論では説明できない。
 しかし、たとえまぐれであったとしても、そのまぐれさえも今までは起きなかったのである。まぐれが起きるためにはバケツに水がいっぱい溜まっていなければならない。すなわち、まぐれが起きたということはバケツに水がいっぱい溜まったということには違いがない。すなわち、そのまぐれ(偶然)も起きるべくして(準備が整って)起きたのである。それは初めて結果が見えた上達に他ならない。そのまぐれは一度発生すれば、その後は徐々に頻繁に発生するようになり、次第に自分なりの「こつ」が自覚できてきて、新しい自分の技能として定着することになる。