| 人はいかにして新しい運動を覚えていくのか:PART3 ー技の粗形態と精形態、自動化と上昇化ー 1.模倣と遊び 乳幼児の思考や知能の発達を臨床的かつ発生論的に研究するために、彼(彼女)らのしぐさや行動を克明に観察した発達心理学者ピアジェによれば、子どもが新しい行為や習慣を身に付けていくのは探索行動に端を発する「遊び」と「模倣」による、という。 彼によれば、模倣は新しい動作や運動を自分に取り込むための方法であり、一方、遊びは模倣で取り込んだ動作を繰り返すことにより、それを身に付けていく手段に他ならない。子どもはこの模倣と遊びにより様々な動作や運動を覚えていくことになる。 以上のように、ピアジェによれば、人が新しい運動を覚えていく最初の手がかりは、人の動作をまねるという「模倣」と、同じ動作を繰り返すことがその本質にある「遊び」から始まると言ってよい。赤ちゃんは母親のしぐさや表情や唇の模倣により、様々な言語や動作を覚えていくのである。彼によれば、習慣的な行為である日常運動はそのほとんどが模倣や遊びを通して身に付いていくことになる。 しかし、スポーツ運動を覚えようとする場合は、模倣や遊びのみでは非常に困難となる。なぜだろうか?理由は2つ考えられる。まず第1に、日常運動は周囲に沢山のモデルがあり、なおかつそれが日常運動であるがゆえに、それを模倣や遊びを通して練習する機会が非常に多い。それに対し、スポーツ運動はそれが非日常的な運動であるために、模倣すべき対象が日常生活には存在しないということと、その練習時間は日常運動に比べ極端に少ないということ。第2に、日常運動とスポーツ運動とでは、そこで要求される課題のレベルが異なる、ということが挙げられる。どういうことかというと、日常運動ではスピードや動きの正確さは、基本的には要求されない。とりあえず日常生活が支障なく送れればよいのである。したがって、競歩のようにスピードが求められる歩き方や野球選手のような投げ方は要求されない。一方、スポーツ運動ではスピードや動きの正確さが本質的な課題となる。そのような課題は、日常生活における模倣や遊びのみでは解決不可能になってくる。その理由は次の章で考えたい。 2.新しい形態の出現(粗形態と精形態) 日常では必要のないスピードや、正確な動きが要求されず、とりあえず、できればよしとする動きの形態のことをここでは「粗形態」と呼ぶ。すなわち、日常運動は粗形態ができあがればそれで十分なのである。そして、人は粗形態までは日常運動もスポーツ運動もそれほど苦労することなく、機械的反復のみで覚えていくことも可能である。 ところが、スポーツ運動ではスピードや動きの正確さが非常に重要な要素となる。テニスで相手とラリーを続けるには、ある程度の形ができてきただけではだめで、ボールの落下地点に素早く移動する足のスピードとボールの落下地点の正確な予測と正確な動きと正確なタイミングが要求される。 そのようなスピードや正確さが求められる動きのことをここでは「精形態」の動きと呼ぶ。実は、歩く、走る、投げるといった日常運動の運動形態(粗形態)も、あるスポーツの中でその精形態を求めていくと、スポーツ運動形態としての歩く、走る、投げるが新たな形態、すなわち精形態として出現してくる。競歩や100M走や走り幅跳びの助走、やり投げなど、スポーツで要求される歩や走や投は、日常運動の粗形態が全て特殊な方向に「変形」(ゲーテの形態学で言う「メタモルフォーゼ」)を被ったものと言えよう。 もちろん、機械的反復のみでも、ある程度のフォームはできあがる。しかし、機械的反復のみででき上がったフォームは粗形態のフォームであり、まだまだたくさんの欠点や不正確性が存在する。したがって、そのようなフォームでは、まず正確にボールを打ち返すことはできない。それではもちろんラリーも続かず、テニスを楽しむというわけにはいかないだろう。 3.2つの可能性(自動化と上昇化) 粗形態ができ上がった後、その技の上達には2つの可能性(方向)が考えられる。 一つは機械的反復を繰り返すことにより、最初はぎこちなかった動きがスムーズになり、考えなくても自動的に身体が動くようになる道筋である。そのように意識しなくても身体が自動的に動くようになることを「自動化」と言う。この場合の上達の方向は技術レベルが上がる上の方向ではなく、その動きに慣れてくるという横方向であり、ベクトルで「ー→」と表すことにする。矢印は長いほど自動化が進んでいることを示す。 自動化された動きの特徴としては「スムーズな動き」と「意識や目標が身体から離れる」ことが挙げられる。バスケットでドリブルするとき、意識や目標が自分の手やボールにあっては相手の動きやゴールが見えにくいことは言うまでもない。歩いているとき、手や足に意識や視線があっては危なくて歩けないだろう。手や足の動きを意識しなくても自動的に動くことによって、我々は目標や視線を自分の周囲や他のことに置くことができる。それにより、我々は歩きながら、ドリブルしながら、ボールを追いかけながら、他の動作をしたり、他のことに注意を集中できるようになる。したがって、この自動化は日常運動においてもスポーツ運動においても是非目指さなければならない重要な方向であることは言うまでもない。そして、それは機械的反復のみで可能なのである。 しかし、この自動化では欠点や悪い癖も自動化されることになる。そして、自動化されるばかりでなく、それらはより強固なものになって、後でそれらの欠点に気づいても、それを直すことは非常に難しくなっていく。たとえば、「字を書く」という行為にしても、その行為自体に質的向上を求める、例えば書道などは別にして、それはどうしても機械的反復になりがちなため、ある程度書けるようになったら、それ以上の質的向上は進まず、癖字などが固定化されるのみとなる。字がきれいに書けるようになりたいと思ったら、書道やペン字を習うか、自分で内省的反復を繰り返すしかないのである。 このように、ある行為が自動化されることは技を自由自在に使いこなすには必要不可欠で重要なプロセスであるが、その上達の方向はあくまでも横方向の「→」であり、技術レベルが上がる本来の上達とは異なる。しかも欠点までもが自動化されていくことを忘れてはならない。スポーツ運動の練習がいわゆる遊びになってしまうと、この自動化の道をたどることになり、それ以上のレベルの向上は望めなくなる。もともと、遊びとは上達は望まず、また、上達するために行うのではなく、そのレベルで楽しむことに他ならない。 そこで、もしより上のレベルを目指したいなら、我々は第2の方向へ進む必要に迫られる。それは機械的反復ではなく、内省的反復により現在の欠点を直したり、新しい技術を身につけて、より高度な習熟レベルを目指していく方向である。この方向のことを前の自動化に対し、「上昇化」と呼ぶことにする。自動化では現在のレベルはそのままであるが、上昇化では次の段階へとレベルアップすることになる。したがって、この上昇化のベクトルは当然「↑」となる。(矢印は長くなればなるほど次の段階に進むのが難しくなることを表す。)つまり、上昇化を目指すことにより初めて粗形態は精形態へと、精形態は更に上位の精形態へとレベルアップしていくことになる。 精形態の特徴としては@スピードが増す。A正確さが向上する。B無駄な動きがなくなる。Cより小さな力でできるようになる。D応用力(対応能力)が増す。などが挙げられる。我々は書道やペン字を習うかーそれは内省的反復を行うことに他ならないー、機械的反復をやめない限り、きれいな字が書けるようにはならないのである。 かくして、日常運動ではそのほとんどが粗形態のまま自動化されていき、またそれでも問題はないが、スポーツ運動では精形態にまで達することが、そのスポーツを本当に楽しむうえで重要なポイントとなる。少なくとも相手と競い、相手を負かしたいと思うなら、精形態を身につけることは必要不可欠なこととなる。 ところでこの精形態を目指すことはバケツ理論では最初のバケツ(粗形態のバケツ)から溢れた水を無駄にすることなく、更に溜めていくために最初のバケツがまるごと入るような、より大きなバケツを用意することに他ならない。かくして精形態のレベルが上がるにしたがって、更に上を目指すためにはバケツはどんどん大きくなっていくことになる。このことはレベルが上がれば上がるほど次のレベルに到達するのはより困難になることを示している。 4.形と型(機械的模倣と内省的模倣) かくして、スポーツ運動の上達を目指すためには粗形態が一応でき上がったら次に、精形態の動きを目指す必要がでてくる。プルークボーゲンで転びながら斜面を降りてくるよりは、スピードに乗って軽快にパラレルで降りてくる方が気持ちいいし、楽しいであろう。相手と競うのであれば、なおさらより高度な精形態が要求される。今挙げたスキーの例では、もちろんプルークボーゲンが粗形態でパラレルが精形態と言うことではない。プルークボーゲンにもパラレルにも、さらにはウエーデルンにも、どのような技にも粗形態という下位のレベルがあり、精形態という上位のレベルがある。もちろん、人によっては機械的反復のみでパラレルやウエーデルンができるようになる人もいるだろう。しかし、そのパラレルやウエーデルンはどこまでいっても粗形態のそれであり、精形態のそれではない。このように、ある動きの精形態を目指そうとするときは、機械的反復のみでは限界があり、人は機械的反復以外の方法を探らなければならない。ただ、人の真似をして同じ動作を繰り返すのみの練習では決して第2の段階すなわち、精形態に至ることはない。 ところで、日本古来の伝統芸道や武道の世界においては、よく形が重要視される。そして、そのような世界では形を身につけることは技を身につけていく上で極めて重要なこととされる。しかし、そこで求められる形の模倣は単なる機械的反復による模倣(そのような模倣をここでは「機械的模倣」と呼ぶ)ではないことに注意すべきである。そこで要求される模倣は、表面的な形の模倣ではなく、その世界においてその世界独特の意味や価値を内包する「型」の獲得を目指したものでなければならない。ただ単に、形だけを機械的に模倣しても、決してそのような型を獲得することはできない。すなわち、表面的な形を求めるのではなく、型に隠された意味や価値や技の真髄を求めることによって初めて求めるべき型は徐々に獲得されていくのである。 そのような型の獲得を目指すには、「教えてもらうのではなく、師匠から盗む」というような学習者の主体的な努力が不可欠となる。受け身の姿勢では決して型の獲得には至らない。ここではそのような模倣を「機械的模倣」と区別して、型の「内省的模倣」と呼ぶことにする。 以上、単なる形の獲得を目指した機械的模倣と型の獲得を目指した内省的模倣では学習者の意識やその努力の内容が大きく異なることを力説しておく。 |
| 人はいかにして新しい運動を覚えていくのか T:機械的反復と 内省的反復 |
人はいかにして新しい運動を覚えていくのか U:初めての「出来た!」 |
人はいかにして新しい運動を覚えていくのか V:技の粗形態と精形態 |
W:人はどこまで上手く なれるのか |
人はいかにして新しい運動を覚えていくのか X:運動感覚をともなった自己運動イメージの獲得を目指して |