「できること」と「わかること」PART3
ー「見える」ということー

「できること」と「わかること」:PART3
ー「できること」に「わかること」はどのように役立つかー
                            額谷修二
1.はじめに
 PART1で私は「とにかく“できる”ためには概念的、すなわち理論的わかりかたは必要なく、最終的には“感覚運動的わかりかた”さえ身につけばよい」と記す一方で、概念的わかりかたはより早くできるようになるために重要な貢献を成すことを示唆しておいた。今回は、いよいよ、できるようになるために概念的わかりかたがどのように役立つかを明らかにする段である。
 ところで、我々は新しい動きを覚えようとする場合、まずその動きを「見る」ことからスタートする。見ることによって、その動きがどういう動きなのかを「知る」ことができる。
 ここで、「知ることができる」と書いたがその「知る」とは一体どういう「知る」なのだろうか?人は「見る」ことによって何を「知る」ことができるのだろうか?何がわかるのだろうか?まずは「見ること」により「わかること」、言い換えれば「見える」ということはどういうことかを整理しておこう。

2.「見える」ということ
1)視覚と他の諸感覚の役割
 我々はモノを見ている場合、一般通念としては網膜に映った像を視覚で見ていると判断しがちである。そのような常識はもちろん盲人には通用しない。盲人は視覚以外の諸感覚でモノを知覚せざるをえない。とりわけ、聴覚や触覚や筋感覚が重要な役割を果たしている。すなわち、盲人は視覚以外の諸感覚でモノを見ていると言ってよい。
 今日の認知心理学では各々の感覚器官には固有の見え方があり、実際にはそれらが統合された形で見えていると言う。すなわち、視覚が他の諸感覚よりも影響力が大きいとしても、実際には視覚のみでモノを見ているわけではなく、様々な諸感覚を総動員してモノを見ているのである。したがって、いかなる感覚が優位に立つかによって、そのモノの見えも当然異なってくる。例えば、同じスポーツを見てもそのスポーツに熟練した人が見るのと、そのスポーツをやったことがない人が見るのとでは、そのスポーツについての運動感覚の有無の違いにより、その見えは大きく異なってくることになる。

 2)見え方は知識によっても異なる
 一般通念としては見え方は誰が見ても同じように見えていると思われている。それは見ている対象の熟知度により異なる。日本人の通常の成人にとっては梅干しは誰が見ても梅干しに見えるであろう。しかし、梅干しを見たことも口にしたこともない外国人が梅干しを見せられたたとしても、その見えは全く異なることは容易に想像がつく。同じことは天気図やレントゲン写真や筋電図などにも言える。
 すなわち、ある対象を見てそこから何が見えるかは、その人が既に知っていることにより異なるのである。つまり、その対象をどのように意味あるものとして分節化できるかにより異なる。例えば、テレビさえも誰が見てもテレビとして見えるわけではない。テレビが存在せず、かつテレビを見たこともない文化圏の人にとっては、それは不思議な物体としてしか見えないことになる。このように我々はある対象を見る場合、その対象をどのようなモノとして見えるかはその人が所有している知識によっても異なることになる。

 3)「モノが見える」と「コトが見える」
 見えると言っても「モノが見える」のと「コトが見える」のを区別する必要がある。人が走っているのを見る場合、「走っている人」しか見えない場合は人体というモノしか見ていないのであり、どんな走り方をしているのかを見ようとする場合はそこで起きているコトを見る(見抜く)必要がある。すなわち、運動を見る場合はモノではなく、そこで起きているコトが対象となる。しかもそのコトは一瞬にして過ぎ去ってしまうという特徴を有する。モノは時間の流れとは関係なくそこに存在するが、コトは時間とともに流れ去っていく。
 そのようなコトを見る(見抜く)ためにはどのような態度や方法が必要になってくるかが次の問題となる。

 4)コトを見るために
一瞬にして過ぎ去ってしまうコトを細部にわたって正確に見ることはほとんど不可能と言ってよい。その動きが複雑であればあるほどその傾向は強い。さらに、その動きが見慣れない動きであれば、なおさら何が起こったかというコトを理解することは非常に困難なこととなる。そういう場合は極めて漠然としたイメージしか残らないのが普通である。
 ところが人はその動きを何回も何回も繰り返し見ることによって、段々とその視覚的イメージや運動イメージは明瞭なものとして定着していくことになる。しかし、その運動イメージも正確なものであるという保証はどこにもない。むしろ、間違った運動イメージが定着してしまうことの方が多いだろう。
 そこで、コトを正確に見抜くためには、一瞬にして過ぎ去ってしまう複雑な動きがどのような運動構造になっているかをとりあえずは分析的に、すなわち頭で理解していく作業が必要になる。ここでは複雑な現象(動き)を理解するために、それをより単純な要素(運動要素)に分節化して、理解を容易にしようとするものである。一瞬にして過ぎ去ってしまう複雑な動きも、時間軸に沿って見ていけば、一連の部分的動きが連動して正確かつスムーズに動いていることが見えてくる。そうなれば、全体としての動きも次第に見えてくるようになる。
 このようにして、コトがわかって(見えて)きて、徐々に運動イメージも精密で正確なものになっていくことになる。すなわち、わかることにより、そのわかり方の程度に応じて、運動イメージが徐々に精確なものになっていくわけである。
 ここにおいて、「わかること」はコトを正確に見抜くためにも極めて重要な意義を担うことになる。 

3.「わかること」と「見えること」
ところで、見るだけで定着していくものはあくまでも運動イメージであり、現実の運動や運動感覚でないことは言うまでもない。そこで、できるようになるためには、定着しつつある運動イメージに基づいて、頭で理解したコトのーそれは未だ分節化された要素の集合体にすぎないー身体による統合化を図る必要がでてくる。
 そのような統合化の道筋においては「わかること」が重要な役割を担う場合とそうでない場合がある。
 「粗協調」レベルの運動の獲得過程においては、例えば乳幼児の運動発達過程に代表されるような基本的・日常的運動においては、わかることは必要とされない。彼らは見よう見まねで、頭で理解することなく新しい運動を身につけていく。基本的な運動パターンはそのようにして概念的理解がなくても身についていく。
 ところが、より合理的・経済的な動きが求められるスポーツ運動においては(すなわち、「精協調」レベルの技の獲得が要求される場合は)、熟練度の低い技に存在するいくつかの欠点を発見し、その欠点を修正していくことがスポーツ運動に習熟していく場合の本質的課題となる。(そのような統合化の道筋「技の習熟過程」の詳細はPART2で述べているのでそれを参照されたし)
 そのような欠点を欠点として自覚するためにはその欠点が見えてこなければならない。そして、その欠点が見えてくるためにはその運動経過が本来どうあるべきかがわかっていなければならない。なぜなら、どこをどのように直していいかがわからなければ直しようがないからである。
 それらはすべて「わかること」に属する問題であることは言うまでもない。すなわち、より合理的な動きを追求していく精協調の獲得過程にあっては、獲得目標であるところの合理的な動きとは何かがわかっていなければならない。そして、見えていなければならない。 

4.結論
 「わかること」が直接「できること」につながることはめったにない。できるようになるためには試行錯誤をともなう実際の反復的な運動体験が必要なことは誰しも経験しているところである。
 しかし、そのような反復行為が有効に作用するかどうかはその人がどのような運動イメージを持っているかによって左右される。間違った運動イメージは間違った努力となり、間違った結果をもたらすことになる。
 精確な運動イメージは目標とする運動経過を精確に見抜くことから始まるのである。そして、精確な見抜きは見るポイントや見方や運動の構造が「わかる」にしたがって徐々に獲得されていくのである。

補足:
 本論稿に関するより詳細な論述は東京文化短期大学紀要(第11号)「“見える”ということ」を参照されたし。なお、PART2の論稿は体育・スポーツ哲学研究(第13巻第2号)「技の習熟過程に関する研究」の一部をわかりやすくまとめたものである。

人はいかにして新しい運動を覚えていくのか
T:機械的反復と内観的反復
人はいかにして新しい運動を覚えていくのか
U:初めての「出来た!」
人はいかにして新しい運動を覚えていくのか
V:技の粗形態と精形態、
自動化と上昇化
人はいかにして新しい運動を覚えていくのか
W:人はどこまで上手くなれるのか
人はいかにして新しい運動を覚えていくのか
X:運動感覚をともなった自己運動イメージの獲得を目指して
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「出来ること」と「わかること」
PARTT:3種類のわかりかた
「出来ること」と「わかること」
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「出来ること」と「わかること」
PARTV:「見える」ということ