エッセー
  1. スポーツと美的体験
     「私の好みは美しい人、姿も心も美しい人」。これはある歌の一節であるが。人間にとって美しさを求める心は本能の一つに違いない。、しかし、その求める強さは人によって様々である。芸術家などは「美しさ」を求めようとする心が非常に強いと考えられる。それがなければ芸術家などにはなれないだろう。つまり、「美しさ」を求めようとする心が、より多く「美しさ」に接する機会を与え、それがさらに「美しさ」を創造していくことにつながっていくのではないだろうか。このことは単に芸術家のみでなく、人間一般にも当てはまるだろう。山の好きな人は山の美しさを求めて山に登るとすれば、そのときの山の美しさとは、単に眺望の美しさだけではなく、山に登ることによって得られる全体的な「美的体験」であろう。同じようにテニスの好きな人はテニスをプレイすることによって得られる美的体験を知っているからそれを求めるに違いない。このようにスポーツを愛する人はそのスポーツによって得られる美的体験を求めてスポーツをすると言えよう。
      ところでその美的体験は人間に感動と満足感と楽しみを与えてくれる。それは生き甲斐となって、その人の人生に美しい時間をもたらすに違いない。それは過去においては美しい思い出となり、また未来においては美しい夢や希望となる。そのようなスポーツは人間を肉体的にはもちろんのこと、精神的にも美しくするであろう。なぜなら、スポーツによって美的体験を得ることは身体全体で「美しさ」を感ずることにほかならず、それは心を(時には病んだ心さえも)解放してくれるからである。身体全体で美を体験すること、肉体も精神もすべて動員して、美と接すること、美しい装いで身体を覆い隠すのではなく、自らの精神と肉体でその美を吸収すること。それは人間を真に美しくするに違いない。
     スポーツによって美的体験を味わうこと、それは人間にのみ与えられた素晴らしい可能性である。人はスポーツをすることによて、そしてスポーツから得られる美的体験を味わうことによって、女性はより健康的な美しい女性へと、そして男性はよりたくましい男性へと変わっていくに違いない。過去に美しい思い出と未来に美しい希望を携えて」

  2. 危険に対処する能力を育てよう
     今日、子供を取り巻く環境はますます悪化の一途をたどっていると言えます。大人は自分たちの都合のみを考えて子供の遊び場を次から次へと奪ってきました。昔の子供たちの広っぱは、ゴルフ場やテニスコートや高速道路に化けています。今日、子供たちが安心して遊べる場所は家の中と幼稚園や学校のグランドしかないといってよいでしょう。
     そして、そのような場所で子供たちはけがをしないように、危険なことをしないようにと過剰な保護のもとでしか遊べなくなっています。そのような温室で、しかも多くのお母さんは促成栽培を望みます。一日も早く歩けるようにと、その子の自然でかつ全体的な成長を無視して、歩行器なるものに子供を入れ、無理に歩かせようとしています。そのような環境の中でどうしてたくましい子供が育つでしょうか。危ないからやらせないのではなく、危ない状況に陥っても自分で対処できるような能力を育ててやることが大人の役割ではないでしょうか。
     考えてみれば現代は無数の危険が至る所に転がっています。何かにつまずいても手が出ないでけがをしたり、火事なって2階から飛び降りられなくて焼け死ぬこともないとは限りません。危険は子供だからといって容赦はしてくれないはずです。子供が将来のより大きな危険に対処する能力を高めようとして、小さな冒険を試みている時こそ、大人は適切な助言を与えて、その行為を見守ってあげるべきではないでしょうか。いつも子供の先頭に立って、道ばたの障害物を取り除いてやったのでは、いつまでたっても子供の成長は望めないでしょう。先に歩かせて、そのような障害物を自分の頭と力で乗り越えさせることこそ必要だと思います。
     そのような経験の積み重ねが「自分で出来る」という自身につながっていくとともに、「自分で考え、自分で行動する」という自主性の発達へとつながっていくと考えられます。それを無視した過保護な教育は百害あって一利なしと言えるでしょう。

  3. スキーのすすめ
     スキーというスポーツは他のスポーツに比べて大きく異なる特徴がいくつかあ  る。
    第1に他のスポーツはほとんど一年中出来るのに対してスキーは冬にしかできないという点である。そのためスキーを愛好する人にとっては、あの寒い冬が待ち遠しくてしかたないのである。もし、スキーが一年中できたら、冬が近づくにつれ、あの胸がわくわくする気持ちは味わえないであろう。また、スキーを知るまでは、ただ寒いだけで家の中に閉じこもりがちだった憂鬱な冬が、スキーの魅力がわかるにしたがって素晴らしい季節に変わってくるのである。一年の中で一つでもそういう季節を持っているということは毎日毎日が単調でストレス過剰の現代社会においては非常に有意義なことと思われる。
     第2の特徴として、他のスポーツはほとんど平面上での移動運動が中心であるのに対して、スキーは斜面上で行われるという点である。前者においては、その運動エネルギーはすべて自ら発するエネルギーによらねばならない。それに対してスキーの場合は自ら持っている位置エネルギーを利用することができる。したがってバランスさえ保っていれば、自分の身体は勝手に動いていくのである。すなわちスキー操作の原則はいかにバランスを取るか、そしていかにスピードをコントロールし舵を取るかの2点にある。それを克服し得たときスキーヤーは大きな喜びと満足感に浸ることができる。そのような満足感や喜びはスキーにおいては習熟レベルに関係なく味わうことが可能である。この点も他のスポーツと大きく異なる。
     すなわち、第3の特徴は初心者でも、また体力に自信のない人や運動神経が鈍いと思っている人でも滑るところを間違えさえしなければスキーを楽しめるという点である。他のゲーム型のスポーツはそれを楽しむにはある程度の技と技術が必要であるが、スキーの場合は日常生活では体験できない経験をするので初心者でも楽しめる。転んで楽しいと感ずるスポーツは他にはないだろう。深雪の中で転んで雪に埋もれる経験はとても愉快なものである。そして初級者でも技術や体力に応じて適当な斜面を選びさえすれば、それなりに充分楽しむことが出来る。そして、他のスポーツ同様、上達すればするほど、あなたはそのスポーツが好きになっていくだろう。 文化や芸術は興味のない人にとってはただの石ころ同然である。しかしそれは磨けば磨くほど、光り輝いてくる石ころである。

  4. 身体の教養
     「教養」というと普通は知的側面をいう。教養がある人とは豊富な知識を持っている人、という理解が普通であろう。ところが、あるドイツ文学者が「身体の教養」ということをある本で語っていた。その人は毎日、約2時間「身体の教養づくり」の時間に充てているという。
     彼のいう「身体の教養」とは単なる体力づくりだけでないことは言うまでもない。それは自らの運動可能性を広げることであり、身体活動を用いての自己実現といっても良いし、身体面での自由を獲得することと言っても良いだろう。自分の世界の外にある、未だ自分のものとはなっていない身体文化やスポーツ文化を自分の文化とする作業といってもよい。
     そういう意味では、ゴルフと野球とサッカーしか語ろうとしない、(語れない、と言った方が正確だろう)日本のマスコミや日本人は「身体の教養」度が甚だ低いと言わざるを得ない。(テレビのスポーツニュースはほとんど野球かサッカーであり、新聞のスポーツ欄はそのほとんどが野球かサッカーで埋め尽くされている。高校生の同じ全国大会でありながら、インターハイの例えば陸上競技やテニスの放映時間と野球の甲子園大会の放映時間を比べてみるがよい。)
     あなたは「身体の教養」をどのくらいお持ちでしょうか。一日どのくらい「身体の教養」づくりに充てていますか。(H3)

  5. 運動不足病(最近全力を出しきって運動したことありますか?)
     日常生活においては自分の持っている力の90%はおろか、50%さえも出す機会はまずないであろう。人間は年を取るにつれ、全力を出すことをしなくなる。身体を思う存分動かすことをしなくなる。そしていつのまにか運動したいという欲求さえもなくなっていく。それを運動欲求喪失病という。その結果、運動に対する適性が徐々に、しかも確実に低下していく。生理学的な老化は避けがたいが、運動不足により人は実際よりも早く年を取ることになる。そうならないように、努めて運動する機会を作り、いつまでも気持ちよく動ける身体と少々のことでは疲れない身体を持ち続けて、身体を動かす快感を忘れないでいたい。そして、たまには全力を出しきって何かを成し遂げる喜びと満足感を忘れないでいたい。(H4)

  6. 一般的な練習に問題あり
     スキー場では1人の教師が10人近い生徒を横1列に並ばせて1人ずつ順番に滑らせるという光景がよく見られる。じっくり観察していると、生徒は自分の順番が回ってくるまでかなりの時間待たされている。そしてやっと順番が回ってきても1回に滑る距離はきわめて短い。つまりほんの少し滑って、長い時間待たされる。それでは上達するわけがない。
     テニスやバドミントンなどでよく見かけるのが素振りである。素振りでまず基本のフォームを身につけようとしているのだろうが、それもよく観察していると基本が身に付くとはとても思えないケースがしばしばである。むしろ悪い癖や欠点が身に付いてしまうといった方が正確だろう。フォームがわかっていない初心者や初級者に、コーチや見る目を持った指導者をつけずに素振りをやらせれば、そうなるのは当然のことである。素振りは見る目をもった他者によって観察され、常に矯正されなければ、その本来の効果は得られない。また、素振りにはボールやシャトルが介在しない。実際にはボールやシャトルが飛んでくる運動の予測と、それを打ち返すタイミングがきわめて重要になってくるはずである。したがって素振りがどんなに正確に出来ても、それのみでは実際のプレーには何の役にも立たない。
     一般的な練習に疑問を抱かず、何のためにそれをやるかも考えずに、ただ”みんなやっているから私たちも同じ練習をしている”、というのではその上達はきわめて遅いだろう。効率と合理性を考えた練習を工夫すれば練習ももっともっと楽しくなるだろう。(H5)

  7. シェイプアップの勧めー太りやすい人、太りにくい人
     私は「そんなに食べて、どうして太らないの」とよく言われる。食べても身にならないという意味だと思うが「燃費が悪い」という人もいる。また、私の外見を見て「やせすぎだ」という人もいる。確かに、日本人の標準体重による肥満判定法によれば私は「やや痩せ気味」の範疇に入る。ここで多くの人が次のように考えている。すなわち標準内であればいいという発想である。果たしてそうだろうか?
     私はこと肥満の判定に関しては日本人の標準内でありたくないと考えている。なぜなら、日本人の大多数の大人はほとんど運動らしい運動をしていない運動不足の集団だからである。日本人の標準体重は運動不足集団を母集団とした偏った統計的方法から導き出されたものであることを忘れてはいけない。
     さらにもう1つ統計による陥りやすい盲点がある。それは母集団に偏りがない場合でも標準内だからいいとか、標準外だからよくない、とは一概に言えないということである。個人差を考慮すれば、ある人は標準内でも問題があり、ある人は標準外でも問題がない場合もある。個人差は相当大きい。
     体重に関して言えば体重が標準よりも重いとか軽いとかは健康面の指標にはならない。標準よりも重くても軽くても、太っていても痩せていても要は運動不足ではなく、少しぐらいの運動や少々きつい労働に対しても、そう簡単に疲れない身体であればいいのである。
     そういう身体は相対的に脂肪は少なく、筋肉が多い身体である。またそういう身体は結果的に太りにくい(脂肪がつきにくい)身体となる。なぜなら相対的に筋肉の多い人は同じ動作をしていてもエネルギー消費量が多くなるからである。筋肉が衰えていくと、もともとはカロリーを消費するための組織だったものが、カロリーを蓄えるための組織になってしまうのである。また、運動をよくしている人で筋肉がよく発達している人は当然動きやすい身体の持ち主となり、動くことが快感となり、結果的に動く量が多くなる。逆に脂肪が多く、筋肉が衰えるにしたがって、動きにくい身体となり、動くことがおっくうになり、結果的にますます動く量が少なくなっていく。私は沢山食べるがそれ以上によく動いているのである。(H6)

  8. サイクリングの勧め
     なぜサイクリングを勧めるのか。その理由は数多くある。
    第1に特定の場所が要らないということ。サイクリングのフィールドは家の周辺から高原に至るまで無尽蔵にある。したがっていつどんなところでも自転車に乗ることが可能である。
     第2に通勤、通学や買い物の手段にも使えるということ。私は雨の日以外はロードレーサーというスポーツタイプの自転車で毎日学校に通っているが、その所要時間は片道約35分。電車で通うとぎゅうぎゅう詰め込まれたあげく、約1時間近くかかるうえ、往復720円もかかってしまう。不愉快な気分を味わって、なおかつお金も取られる。1ヶ月にすると2万円近くかかる計算になる。不愉快な思いをしてお金を払って、そして疲れたあげくに運動不足になる。いいことは1つもない。自転車なら、多少排気ガスは気になるが、車の通りの少ない道では快適な風を受けながら、しかもただである。さらにいいことには知らない間に脚力や心肺機能のトレーニングにもなっているのでる。
     第3に自転車は足や膝にかかる負担がジョギングなどに比べはるかに少ない。そのため疲労感も少ない。にもかかわらず脚筋群に対するトレーニング効果はジョギングよりも高く、エネルギー消費量も思ったより多いので、ダイエットにはもちろんのこと、下半身の筋力トレーニングにも最適である。適度な登りもあれば筋力アップと心肺機能の向上には最高の道具となる。昔、私が教えた学生で、週に2回、毎回45分、自転車に負荷をつけるマシーンでトレーニングしてもらったところ、なんと1ヶ月間でウエストが5cmも細くなった。62cmから57cmになったのである。その一方で女性にとっては気がかりなふくらはぎや太ももの肥大も生じなかったばかりか、ほんの少しではあるが逆に細くなったことも付け加えておく。(H8)
  9. プロの指導者とアマチャア指導者の違い、そして指導者の役割
     この場合のプロの指導者とはスキーで言えばデモンストレーターのような卓越した技能と高度な専門性を有し、かつその当該スポーツの指導や普及を主たる職業としているような人を言います。そのようなプロの指導者とアマチュア指導者の決定的な違いは何でしょうか。それは技術の熟練度と完成度の違いにあると言ってよいでしょう。わかりやすく言えば、プロの指導者は技術の完成度や熟練度が極めて高いのに比べ、アマチュア指導者はそれが決して高いとは言えないということです。つまり、アマチュア指導者の技術の完成度や熟練度は決して充分なものではなく、技術の表現力という点でもプロの指導者からすればかなり見劣りがするということです。それはもちろん、ある意味致し方ないことであり、アマチュア指導者の存在を否定するわけではありません。
     ところで指導者の役割は大きく分けて4つあると思います。第一はより完成度の高い技術を見せること。第二は生徒の技術上の本質的な欠点や問題点を正確に見抜くこと。第三はその生徒に現時点ではどこをどうすれば上達に繋がるかをわかりやすく言葉で表現し、その練習法を提示し、生徒の技能を引き出すこと。第四は生徒に指導を通して充実感や満足感を与えられること。以上私は4つの能力が指導者に求められると考えます。生徒のレベルが低いほど第1よりも第2、第2よりも第3、第3よりも第4の能力がより重要になってくるでしょう。教え方の上手い教師は第2や第3、第4の能力が高い人ということになります。一方で生徒のレベルが高くなればなるほど第1の能力も重要になってくるでしょう。
     一般的には以上のことが言えますが、一瞬にして過ぎ去る演技を見て、その場で瞬間的に今展開された指導者の技術を見抜くことはほとんど不可能に近いでしょう。したがって、生徒は常に指導者の演技を見て、それを真似しようとするのが常です。したがって指導者の演技が不十分なものであれば、ましてや技術的に重要な局面の表現力が不十分だったり、技術的な解釈が間違っていたりすれば生徒は模倣すべきでない演技を見せられることにもなりかねません。
     したがって、指導者は常に自らの演技力や表現力を高め、当該スポーツを研究していく必要があるでしょう。
     最後に教え方の上手い下手は別問題であることも指摘しておかねばなりません。技術の完成度や熟練度が高いからといって教え方が上手とは限りません。逆に技術の完成度や熟練度は低くても教え方が上手い教師ももちろんいます。しかし、いくら教え方が上手くても、教えている内容(技術的内容や演技)に問題があれば本末転倒といわざるを得ません。したがって指導者は常に自分の演技力や技術的解釈に問題がないかどうかを研究していく必要があります。指導者の向上心と研究心、この2つは指導者にとって極めて重要な資質と言えるでしょう。
     ある人が「誰から教わっても同じだよ」と言いました。私はそのときは反論しませんでしたが、誰から教わるかによって、そこから得られるものは大きく異なります。したがって上達にも大きく影響してきます。
  10. 見えにくい局面と見えやすい局面
     スポーツ実施中の動きは一瞬にして過ぎ去ってしまうため、観察者には印象に残りやすい局面(=見えやすい局面)と印象に残りにくい局面(見えにくい局面)が存在する。例えば器械運動の飛び込み前転では空中局面での動きは印象に残りやすいものの、着手後の前転局面は印象に残りにくく、未熟練者ではその運動の上手・下手の評価はほとんど空中局面で評価しているという研究データも報告されている。(実際には飛び込み前転では空中局面よりも着手後の前転局面の方が安全に飛び込み前転を行う上ではより重要である。)
     同じようなことがスキーのロングターンにおいても言える。スキーのロングターン、特にカービングターンでは切り換え局面やターン前半の外スキーへの積極的な乗り込み局面よりも、内傾角の大きいフォームや、すばやいエッジの捉えに目がいきやすい。なぜなら切り換え局面やターン前半における外スキーへの積極的な乗り込み局面は時間的に素早く過ぎ去り、我々の目には素早いエッジの捉えと、大きな内傾角のあるフォームが残像として残りやすいからである。このことはビデオで観察しても同様である。したがって、われわれはどうしても切り換え局面とターン前半の積極的な乗り込み局面がおろそかになりがちである。現在多くの自称中・上級スキーヤーはターン前半で腰が板からはずれ、しかも後傾気味の状態で内スキーに乗りすぎているとともに、ターン前半からエッジをかけすぎているため、もっとも板が走る局面でブレーキをかけている運動となっている。これらは見えやすい局面のみ模倣している結果と言えよう。
     このように運動には見えやすい局面と見えにくい局面があることを認識すれば、運動をただ眺めているだけでは、いくら運動を観察しても、いくらイメージトレーニングをしても、本当に重要な運動要素は決してイメージに残らないし身に付かないだろう。見えにくい局面は多くの場合、時間的に短く一瞬にして過ぎ去る局面であるため、ビデオ等で観察する場合はスローやコマ送りを多用して、短い時間でどのような運動が行われているかを詳細に観察することが重要である。そして一方で、その局面で自分はどのような運動が展開されているかを比較して観察することも重要である。
     見えにくい局面にこそ光を当てよう!