<知識技術と体験技術>
自分の技術を高めようとする場合、我々は体験(実践)することから始めるしかないと思います。その前に本を読んで知識を得たとしても、本当の練習はまず動いてみることから始まるはずです。ここで、体験してみたもののまだ思うように出来ない段階(技術が身についていない段階)をaとしましょう。そして技術が身について出来るようになった段階をA(「体験技術」と呼んでおきます)とします。そしてその人が、獲得した体験技術なり感覚なりをなんとか人に伝えようとして、それを言語化したものを「知識技術」と呼び、それをBとします(雑誌等に載っている技術論は全てBです)。つまり体験から始まりa→A→Bという流れが出来ます。人に教えるのでなければA段階で十分です。しかし、人に教えようとする場合はどうしても自分が獲得した体験技術なり感覚なりを言葉にして伝えようとしてBを作り出そうとするでしょう。

 一方、上手になりたいと思っている人は当然上手な人や指導者の言うことが気になります。指導者の知識(=B)を持つことによって上手くなるだろうと思うのは当然のことだと思います。そしてBを沢山持とうとします。ところが、いくら沢山Bを持ったとしても、その人が実際に滑り始めるときは、やはりaから始めるしかないのです。つまり技術獲得の流れはa→A→Bであって、その逆ではありません。
 ここで私が従来から提案している方法は上手な人のAを沢山(少なくとも数十回以上の単位)観察することによって(ただし、その場合のAは自分とかけ離れていないレベルである必要がある。とんでもなく上手い人の場合は易しい斜面で技能レベルを落として滑ってもらう)、aよりはAに近いa’から始められるのではないかという仮説です。

 すなわちa→a’(ここからスタート)→Aを目指す。その場合、Aの観察で盗むべきものはa’(体験)であってB(知識)ではありません。なぜなら技術獲得の流れはあくまでもa→A→Bだからです。ところで、観察という行為も一種の体験です。体験している以上、何かを発見しよう、得ようという気持で観察していれば、そしてその体験を積み重ねていけばaではないスタート地点a’が得られるのではないでしょうか?幼稚園の子供などは、いきなり逆上がりが出来ることはそれほどまれではありません。しかし、逆上がりを見たこともないのに1回見ただけで出来てしまう子供はまずいないでしょう。

 それではBは全く役立たないのでしょうか?そういうことはありません。
BはAの観察のために役立てるのです。観察対象のAはあくまでも自分の体験技術ではなく、他人の体験技術ですから、ただ何となく眺めていてもそこからは何も見えてこないでしょう。見て、そこから何かの情報を得るには知識が必要であることは既に述べている通りです()。知識は観察して、そこから何かを見抜いたり、発見したりするためにこそ役立てるべきものです。ですから、知識を集めることも無駄ではありません。でもその後、その知識と関連した実際の映像を見ながら、他人のBと他人のAから新たな自分のa’を作る努力をしなければ、その知識は文字通り絵に描いた餅となるでしょう。(なお今回の拙論は筑波大学、佐野淳先生の「スポーツ技術の運動感性学的考察」よりヒントを得たものであることを付け加えておきます。)