19<模範演技や図や映像でわかることと言葉でわかること>
体育の教師やスポーツの指導者のみならず、他人に何かを伝えたいときや何かを理解してもらいたいときは、言葉による方法と模範演技や映像や図などを見せる方法がある。指導者や教師はそれらを利用することで、自分の伝えたいことが全員に等しく理解してもらえていると思いこんでいることはないだろうか。
 例えば、同じものを見ていても「見え方はその人の知識により異なる」ということは、将棋や囲碁の対局中の局面を高段者が見るのと、素人が見るのとではその見え方が全く異なる。同じことは筋電図やレントゲン写真や天気図にも言える。この事実は「見る」という行為は単に視覚だけで見ているわけではなく、その人の所有している知識の量によってその見え方はかなり異なるということを示唆している。
 一方で「百聞は一見に如かず」ということわざの意味するところは、言葉で沢山説明するよりは見せたほうが早いということで、見ることの優位性を示したことわざである。しかし、果たして常に見ること(見せること)の方がよりわかるか、正確かというと、この前段で述べたように見え方は知識によって異なるのでそうとも言えない。
 また、図や写真のみでわかる見え方(認識のありかた)と、図や写真を提示されないで言語のみで想像できる図や写真の表象のありかた(認識のありかた)とは相当異なることもなんとなくわかる。人の顔や、写真に写っている風景などは言葉で言い尽くせない。その一方で筋電図やレントゲン写真や天気図などはそれに関する専門的知識がなければ、その図や写真を見せただけではわかってもらえず、言葉による説明の方がより理解しやすいだろう。
 以上のことから、図や画像でわかる「わかりかた」と、言語でわかる「わかりかた」は相当異なることが納得してもらえたかと思う。それでは図や画像でわかる「わかりかた」
では何がわかり、何がわからないのか。言語でわかる「わかりかた」では何がわかり、何がわからないのか。教育者やスポーツの指導者やコーチに携わっている人はこのことを正しく理解しておく必要があるだろう。
まず最初に明らかにしておきたいことは図や画像を用いずに言語のみで、その図や画像をどの程度正確に他者に伝えることが可能だろうか、という問題である。この問題に関して、哲学者の廣松渉氏はある雑誌で次のように述べている。
 「言語的伝達のこの代行は、聴者が当該の図像的現相(少なくとも類似的な図像的現相)を自己の体験によって記憶的に”保有”していることを前提とし、この条件が無ければ実質的には不可能である。また聴者の側で話者の期待する相での図像的表象が形成されているか否かを”確認”することが至難であり、所期の伝達がおこなわれる保証が立ちにくい。」(廣松 渉「映像で知るのと言葉で識るのと」、平凡社カルチャーtodayH『知る』村上陽一郎他、1980) 
 それでは逆に言語によらず、図や画像のみでどれだけ正確に他者に伝えることが可能だろうか。廣松氏は同じ雑誌の中で以下のように述べている。
 「所与の図像は、それを機縁とした連想的思考をいろいろともたらしうる。しかし、伝達的手段として提示されたことが了解されている場合、”解読の仕方””解読の幅”が併せて了解されている。例えば、今、墨絵の鳥が描かれているとしよう。黒色で描かれているからといって、それが黒い鳥とは限らないことが了解される。とはいえ、当の図像による伝達が人間や動物ではないという否定的判断を積極的に表明しようとしているものとはよもや人々は受けたらないであろう。鳥である以上は、脊椎動物であることは確かである。しかし、伝達者が「脊椎動物である」ということを積極的に表明したものと受け取るとすれば、それは過度の連想的な”解読”として卻けられてしかるべきであろう。「図像的伝達」はそれが伝達目的をもった図像的提示として了解されるその場において”解読”の幅を限定されているのであり、その”幅”は「言語的伝達」の代行を果たすには狭すぎる枠内に”社会慣習上”劃定されている。・・・画像そのものは「否定」「疑問」、それに「或いは」といった論理的選言、さらには”客観的”様相や「陳述様相」といった次元など、言語的表現にとって必須的なモメントを”表現”しない機制になっている。このゆえに「図像的伝達」においては「概念的認識」の極く限られた部面しか「知る」ことができない結果になる。認識において中枢的な意義をもつ「意味的所知」を間主観的に同調性をもつ相で「概念的に」「知る」ためには、こうして事実上の問題として、われわれは「言語的伝達」にまたざるを得ぬ次第である。」 (廣松 渉「映像で知るのと言葉で識るのと」、平凡社カルチャーtodayH『知る』村上陽一郎他、1980)
 以上、廣松氏の指摘を簡単にまとめると次のようになるだろうか。
まず、ある動きや技などの言語による伝達方法では、聞き手の方の過去の体験によって類似した動きや映像が記憶されていることが大前提であり、しかもそれを確認する方法はないということで、動きや技の言語による説明のみではある人には伝わり、他の人には伝わっていないということを了解しておく必要があるということ。例えば「太鼓を叩くようにテニスのボレーをする」とか、「布団を叩くように何々を行う」などといった比喩を用いた説明ではその比喩は太鼓を叩いたことがない人や布団を叩いたことがない人にはイメージしづらく、したがって比喩にはならない。
 次に、言語的説明のない模範演技や図像のみの提示ではその模範演技や図像に含まれている重要な事項(技術的なポイントや、言葉によってしか説明できない内容など)はほとんど伝わらないと言って良いでしょう。例えば、模範演技を見せる場合は良い模範演技を見せるだけではなく、それと比較できるようにいくつかの典型的な悪い演技を見せたり、Aという要素が欠けた模範演技を見せてAが欠けたらどうなるか、Bという要素が欠けた模範演技を見せてBが欠けたらどうなるかというぐあいに、模倣して欲しい模範演技の中に隠されているAやBやCやDなどの技術的なポイントがイメージとして残るような模範演技を行うことで初めてそれが有効なものとなるだろう。
 したがって、他者に何かを伝えたいときは言葉や模範演技のそれぞれの役割と限界を理解した上で、相互に補い合う方法で適切な使用方法を工夫して説明する必要がある。模範演技を行って、その後重要なポイントをいくつか言葉で説明する方法では、例えその順序が逆でも、複数のポイントを同時に意識できない以上、模範演技の説明が単に説明だけで終わってしまい、実際には有効なアドバイスになっていないと考えるべきである。