17<「出来る」ことと「わかる」こと:Part5「わかる」ことの役割>
1.「コトを見るために」
 器械体操やフィギュアー・スケートの審判は選手の演技を見て、即座にその評価を点数として下さなければならない。その場合、審判の人は選手の一連の技の流れを見ているわけだが、その場合、審判は選手のからだ(=モノ)を見ているわけではない。そこで起きている技の出来ばえ(=コト)を見ている。しかし、普通の人にとっては一瞬にして過ぎ去ってしまう動き(コト)を、細部にわたって正確に見ることはほとんど不可能と言ってよい。その動きが複雑であればあるほど、その傾向は強い。さらに、その動きが見慣れない動きであれば、なおさら何が起こったかというコトを理解することは非常に困難なこととなる。そういう場合は極めて漠然としたイメージしか残らないのが普通である。
 ところが人はその動きを何回も何回も繰り返し見ることによって、徐々にその「視覚的運動イメージ」(視覚のみでイメージされた運動像)は明瞭なものとして定着していくことになる。しかし、その視覚的運動イメージも運動当事者のものではなく、観察者のイメージである以上、正確なものであるという保証はどこにもない。むしろ、間違った視覚的運動イメージが定着してしまうことの方が多いかもしれない。
 そこで、コトを正確に見抜くためには、一瞬にして過ぎ去ってしまう複雑な動きがどのような運動構造になっているかを、とりあえずは分析的に、すなわち頭で理解していく作業が必要になる。ここでは複雑な現象(動き)を理解するために、それをより単純な要素(運動要素)に分節化して、理解を容易にしようとするものである。一瞬にして過ぎ去ってしまう複雑な動きも、時間軸に沿って見ていけば、どんなに複雑な技でさえも一連の動きが連動して、正確かつスムーズに動いていることが見えてくるだろう。そうなれば、全体としての動きも単なる漠然とした視覚的運動イメージではなく、擬似的な運動感覚(即ち、「こんな感覚ではないだろうか」という未だ身に付いていない運動感覚)を伴った「感覚運動的イメージ」とも言うべきものが生じてくる。
 このようにして、コトがわかって(見えて)きて、徐々に漠然とした視覚的運動イメージから、その瞬間にどういう動きが展開されているかという中身を伴った、より精密な感覚運動的イメージへと変貌していく。すなわち、わかることにより、そのわかり方の程度に応じて、運動イメージは徐々に明瞭で精密なものになっていくわけである。ここにおいて、「わかること」はコトを正確に見抜くためにも極めて重要な役割を担うことになる。 

2.「わかる」ことの役割
 ところで、見るだけで定着していくものはあくまでも視覚的運動イメージや擬似的な感覚運動的イメージであり、現実の運動や運動実施中の運動感覚でないことは言うまでもない。そこで、できるようになるためには、擬似的な感覚運動的イメージ(言うなれば運動の設計図)に基づいて、頭で理解したコトの‐それは未だ技術要素の集合体にすぎない‐身体による統合化を図る必要がでてくる。そのような統合化の道筋においては、以下で述べるように「わかること」が重要な役割を担う場合とそうでない場合がある。
 「粗形態」レベルの運動の獲得過程においては、例えば乳幼児の運動発達過程に代表されるような基本的な日常的運動においては、わかることは必要とされない。彼らは見よう見まねで、頭で理解することなく、新しい運動を身につけていく。基本的な運動パターンや粗形態レベルの技であれば、そのようにして概念的理解がなくても身についていく。
 ところが、日常的な運動には見られない、特殊な運動で、しかも合理的・経済的な動きが求められるスポーツ運動においては、粗形態レベルの技に存在するいくつかの欠点を発見し、その欠点を修正していくことがスポーツ運動に習熟していく場合の本質的課題となる。
 そのような欠点を欠点として自覚するためにはその欠点が見えてこなければならない。そして、その欠点が見えてくるためには、その運動経過が本来どうあるべきかがわかっていなければならない。なぜなら、どこをどのように直していいかがわからなければ直しようがないからである。
 それらはすべて「わかること」に属する問題であることは言うまでもない。すなわち、より合理的で無駄のない経済的な動きを追求していく精形態レベルの技の獲得過程にあっては、獲得目標であるところの合理的な動きとは何かがわかっていなければならない。そして、見えていなければならない。 
3.結論
 「わかること」が直接「できること」につながることはめったにない。できるようになるためには試行錯誤をともなう実際の反復的な運動体験が必要なことは疑う余地もない。
 しかし、そのような反復行為が有効に作用するかどうかは、その人がどのような運動イメージを持っているか(漠然とした「視覚的運動イメージ」なのか、擬似的な運動感覚を伴ったより精密な「感覚運動的イメージ」なのか)によって左右される。間違った運動イメージは間違った努力となり、間違った結果をもたらすことになる。
 精確な運動イメージは目標とする運動経過を精確に見抜くことから始まるのである。そして、精確な見抜きは見るポイントや見方や運動の構造が「わかる」にしたがって徐々に獲得されていくのである。