<「出来る」ことと「わかる」こと:Part4「理論的わかりかた」>
Part3で私は「とにかく“できる”ためには理論的わかりかたは必要なく、最終的には“感覚運動的わかりかた”さえ身につけばよい」と記す一方で、理論的わかりかたは、より早くできるようになるために重要な貢献を成すことを示唆しておいた。今回は、出来るようになるために理論的わかりかたがどのように役立つかを明らかにする段である。
ところで、我々は新しい動きを覚えようとする場合、まずその動きを「見る」ことからスタートする。「見る」ことによって、その動きがどういう動きなのかを「知る」ことができる。
ここで、「知ることができる」と書いたが、その「知る」とは一体どういう「知る」なのだろうか?人は「見る」ことによって何を「知る」ことができるのだろうか?何が「わかる」のだろうか?まずは「見る」ことにより「わかる」こと、言い換えれば「見える」ということはどういうことかを整理しておこう。
<「見える」ということ>
1.視覚と他の諸感覚の役割
我々はモノを見ている場合、一般通念としては網膜に映った像を視覚で見ていると判断しがちである。そのような常識はもちろん盲人には通用しない。盲人は視覚以外の諸感覚でモノを知覚せざるをえない。とりわけ、聴覚や触覚や筋感覚が重要な役割を果たしている。すなわち、盲人は視覚以外の諸感覚でモノを見ていると言ってよい。
今日の認知心理学では各々の感覚器官には固有の見え方があり、実際にはそれらが統合された形で見えていると言う。すなわち、視覚が他の諸感覚よりも影響力が大きいとしても、実際には視覚のみでモノを見ているわけではなく、様々な諸感覚を総動員してモノを見ているのである。したがって、いかなる感覚が優位に立つかによって、そのモノの見えも当然異なってくる。例えば、同じスポーツを見ても、そのスポーツに熟練した人が見るのと、そのスポーツをやったことがない人が見るのとでは、そのスポーツについての運動感覚の有無の違いにより、その見えは大きく異なってくることになる。
2.見え方は知識によっても異なる
一般通念としては、見え方は誰が見ても同じように見えていると思われている。それは見ている対象の熟知度により異なる。通常の教育を受けた普通の大人にとっては、天気図や地図は誰が見てもそれとして見えるはずである。しかし、乳幼児にはどう見えるであろうか。少なくとも天気図や地図としては見えていないだろう。同じことはレントゲン写真や心電図などにも言える。レントゲン写真に対する専門的知識がない一般の人が、レントゲン写真に写っている小さなガンを発見することは先ず不可能だろう。囲碁や将棋の対局中の局面を全く囲碁や将棋に対する知識がない人と羽生善治永世名人が見るのとでは、その見えは全く異なることは容易に想像がつく。
すなわち、ある対象を見て、そこから何が見えるかは、その人の知識の量により異なる。つまり、その対象をどのように意味あるものとして分節化できるかにより異なる。このように我々はある対象を見る場合、その対象をどのようなモノとして見えるかはその人が所有している知識によっても異なることになる。
3.「モノが見える」と「コトが見える」
見えると言っても「モノが見える」のと「コトが見える」のを区別する必要がある。人が走っているのを見る場合、「走っている人」しか見えない場合は人体というモノしか見ていないのであり、どんな走り方をしているのかを見ようとする場合は、そこで起きているコトを見る(見抜く)必要がある。すなわち、運動を見る場合はモノではなく、そこで起きているコトが対象となる。しかもそのコトは一瞬にして過ぎ去ってしまうという特徴を有する。モノは時間の流れとは関係なく、そこに存在するが、コトは時間とともに流れ去っていく。
そのようなコトを見る(見抜く)ためにはどのような態度や方法が必要になってくるかが次の問題となる。