<「出来る」ことと「わかる」こと:Part3「感覚運動的わかりかた」>
 前回の考察から、「出来る」というのは「わかりかた」の一種であり、それは一般的に言う「身体でわかる」、もしくは「からだがわかっているわかりかた」、すなわち「感覚運動的わかりかた」に他ならないということ、また、「出来る」からといって、その運動に関して理論的に「わかっている」とは言えない、それらは全く別の問題である、ということを理解していただけたことと思う。
 ところで、新しいスポーツや新しい動きを身につけるためには、そのスポーツや動きを理論的に理解するだけでは不可能なことは言うまでもない。そこでは、からだで新しい動きを覚えていく、もしくは感覚的に新しい動きを獲得していくことが必要である。すなわち、「感覚運動的わかりかた」が重要になってくる。そのためには、先ずは既に獲得している持ち前の運動技能を頼りにしていくしかない。しかし、その運動技能では新しい課題を克服出来ない時は、その運動技能を改造していくことにより、与えられた課題を克服しうる新しい運動技能を作り上げていく必要がある。
 既に獲得している自らの運動技能がどのようなプロセスで、より応用範囲の広い技能に変化していくのか。この問題に関しては、以前に取り上げたJ.ピアジェの知能心理学における均衡化理論が大きなヒントを与えてくれる。J.ピアジェは人間の知的発達や心的発達を環境に対する一種の適応行為と考え、生体は絶えず食物を消化吸収していきながら同化していくように、環境を同化しつつ、うまく同化できないときは、環境とうまく適応していけるように、自身の心的構造や適応プログラムを変更、調節していきながら同化可能領域を広げていくとしている。「行為には外部に向かって展開していくものと、思考として内部化されるものと、二つの種類がある。しかしどんな種類のものにせよ、それは、適応の形をとる」(『知能の心理学』、p.11)。ピアジェはそのことを乳幼児の知能や認識の発達過程を実験と観察を繰り返しながら、その構造を論理学的に分析している。 すなわち彼によれば、生体は環境の同化と、同化不能の時は環境に合わせるべく自己の構造の調節を繰り返しながら、常に自分自身の適応構造を拡大、発展させていきながら発達していくとしている。彼はそのような構造をシェマと呼んでいる。シェマはその構造のタイプにより心的シェマ、感覚・運動的シェマ、言語的シェマ、概念的シェマ等、様々に呼ばれている。彼によれば、シェマは環境を同化するための構造であり、常に同化・調節を繰り返しながら、より適応範囲の広い、より安定したシェマへと発達していくことになる。即ち、Piagetの均衡化理論によれば運動技能という感覚・運動的シェマの同化・調節機能の反復により、そのシェマは徐々にその対象(身につけようとしている技)を同化可能にしていき、より適応範囲の広い感覚・運動的シェマに変化していくということになる。
 以上の考察から、とにかく「出来る」ためには概念的、すなわち理論的わかりかたは必要なく、「感覚運動的わかりかた」さえ身につけばよい、ということが言える。しかし、ここで誤解しやすいことは、出来るようになるためには「理論的わかりかた」は役に立たない、と考えてしまうことである。結論的に言えば、役に立たないどころか、それは練習上、もしくはコーチング上、重要な役割を担うものである。スポーツは確かに「身体で覚える」ものであるが、その過程で人はなかなか成果があがらない、とぼやく。それは考えることをせず、からだだけで覚えようとするからに他ならない。確かにそれでも時間をかければ覚えられるかもしれない。たとえば、模倣は乳児期からすでに見られるように、新しい動きを獲得するための基本的な手段の一つであることは間違いない。しかし、模倣だけで新しい動きを身につけるには、その動きが複雑であればあるほど、また難易度が高ければ高いほど膨大な時間がかかるのである。(ただし、比較的単純な技で、日常生活の中で行われる動作に類似した動きや、自分が既にマスターしている動きに類似した技であれば模倣のみで1回の試技で出来てしまうことはある。)
 それでは「出来る」ようになるためには「理論的わかりかた」がどのように役立つのであろうか。その問題については次回において考えたいと思う。