<体育は何のためにあるのか?>
−体育は何を教える教科なのか?何を学ぶ教科なのか?−
体育という授業で先ず期待され、そして要求されるのは「楽しさ」ではないだろうか?他の授業では「分かり易さ」が要求される事はあっても、「楽しさ」が要求される事は、まず無いだろう。確かに、嫌々身体を動かしていても、それは苦役でしかない。どうせなら楽しく身体を動かしたいと思うのは誰しも思うこと。しかし、楽しむことが目的になってしまっては、もはやそれは遊びでしかない。授業の目的はあくまでも何かを学ぶことであり、遊ぶことではない。従って、授業では「楽しさ」の程度が問われるのではなく、「何を学んだか」、その質と量が問われるべきである。
一方、体育では身体を動かすことからくる正反対の感情が生まれ易い。即ち、嫌いになるか、好きになるか、もしくはつまらないと思うか、楽しいと感じるか、である。何れの感情も上手く出来るか、出来ないか、もしくは上達を感じられるか、感じられないかの違いから生ずる。最初は上手く出来なくても、上達を感じられるようになれば、もっとやりたい、もっと上手くなりたいと思うに違いない。
そのような感情の出現は何も体育の場だけではなく、人生の中で度々あるだろう。新しい事にチャレンジし始めた時や、何かの上達に行き詰まっているとき、仕事が上手くいかない時など、自分の覚えの悪さや、手際の悪さ、上達感の無さなどに悩んだり、途中であきらめたりすることは誰しも経験することではないだろうか?
もし体育という教科の中で、上達するための秘訣や、上達に関する法則や論理などを学べれば、スポーツ以外の場面でも大いに役立つに違いない。そして、授業の中で技の獲得や上達を目指す事により、上達感や達成感が得られれば、もっと身体を動かしたい、もっとスポーツをしたいという気持ちになるだろうし、ひいてはそれが運動の習慣化や生涯スポーツへと繋がっていくことを期待したい。
ところで、体育では必ず上手な人と、そうでない人が混在する。それはお互いに生徒同士教え合ったり、教わったりし合う、恵まれた環境にあるということでもある。そのような環境を上手く利用すれば、教える生徒も教わる生徒も学べることは沢山あるはずだ。
教師の指導とレクチャーの下、お互いに教え合ったり、教わったりしながら、上達に関する法則や論理や、その具体的方法を、身体と頭(即ち考えること)を使って学んでいく経験や、技の獲得を目指す中で難しい課題に身体を使ってチャレンジしていく経験こそ、他の教科では出来ない体育独自のものであり、生徒達には、そこにこそ学ぶことの「楽しさ」や「面白さ」を感じて欲しいと思う。
<皆さんに望むこと>
体育とはただ単に楽しく身体を動かしたり、スポーツを楽しむだけではなく、スポーツをすることは楽しいと思えるように、そのスポーツを楽しむために必要不可欠な技を身につけていくこと、もしくはその技を未だ獲得できていない人に教える体験を通して、先ずは技を正しく理解することの重要性と、その理解に基づいて他人の動きを観察する事の重要性を学ぶ場である。具体的には上手な人からは真似すべき動きを、出来ていない人からは何処がどういう風に問題なのか、そこを直してあげるにはどんな言葉かけや、どんなアドバイスをすべきか等を考えて他人を観察し、その上で助言するのである。