学生の感想文より

 私の授業、スポーツ科学(最初は体育理論という名称で行っていた)では、当初から評価のための試験は実施しませんでした。なぜなら試験のために知識を一時的に暗記したところで、それらはあっという間に忘れ去るのが常であり、そのような勉強はほとんど意味がないと思うからです。そんな無駄な勉強を強制したくはありません。そして、そのような無駄な勉強を強要している先生がなんと多いことか。考えることが大切だと口では言っておきながら、実際には知識を一方的に与えるだけで、どれだけ覚えたかをテストで評価している教師がなんと多いことか。重要なことは覚えることではなく、自分の知識や考え方が底の浅い不十分なものであることを知り(ソクラテスの「無知の知」)、新しい知の体系や様々な考え方を取り入れながら、自分の知の体系をより豊かなものに変えていくことであると考えます。すなわち、自分の価値観や考え方や借り物の知識(プラトンの謂う「ドクサ」)に「ほんとうにそうだろうか?」と批判を加えていきながら、新しい考え方や自分を再発見していくことが重要と考えます。
 試験を行わない代わりに、私は毎回レポートの提出を要求しています。そのレポートではその授業で行われた内容を自分の言葉に置き換えて書くよう要求しています。さらに、自分の意見や考え方も取り入れながら、授業を聞いていない他人に説明するつもりで書くよう要求しています。(私は授業の中で、「いいレポートとは授業を聞いていない人でも、それを読むだけで内容がよくわかる、もしくは深く考えさせられるレポートである」と説明している。)したがって授業中にメモしたノートを整理して写すだけのレポート(その種のレポートは考えなくても書けるし、教師の言葉をただ写しているだけに過ぎない)は許されません。しかも読み手が楽しくなるようにイラストや絵やカラー文字なども取り入れ、書いていても楽しくなるように、そして書き上げたあと、このレポートは一生大切にしておきたいと思えるように書いて欲しいと言っています。自分の言葉で語ることは非常に難しいはずです。理解していなければ自分の言葉にはならないでしょう。自分の言葉にならないということは理解できていないということになります。すなわち、自分の言葉に置き換えられるかどうかによって理解できたかどうかということも自ずとわかることになります。
 そのような学生のレポートから私自身多くのことを学び、考えさせられました。私の説明より、もっとわかりやすい説明をしてくれたり、様々なアイディアを出してくれたり、私の授業の不十分さをたびたび批判してくれたりしました。私にとっては学生のレポートは私のよい教師となりました。また、そのような学生のレポートは私の貴重な宝物です。
 私が尊敬する教育哲学者であった林竹二氏は次のように述べています。「学ぶということは、覚え込むこととは全く違うことだ。学ぶとはいつでも何かが始まることで、終わることのない過程に一歩踏み込むことである。一片の知識が学習の成果であるならば、それは何も学ばないでしまったことではないか。学んだことの証はただ一つで、何かが変わることである。」(林竹二『学ぶということ』国土社)。
 授業が終わったら、もしくは試験が終わったら、それで終わるのではなく、教師も学生も授業が終わってから、本当の学びが始まる。そして本当に学んだかどうかは自分の中の何かが変わりはじめて、はじめて学んだと言えるという氏の言葉は私の授業方法の大きな指針となりました。
 
私の授業