「できること」と「わかること」PART1
ー3種類のわかりかたー

 幼稚園児でもさか上がりができる子はそれほどめずらしくない。しかし、その子に「さか上がりができるのはなぜ?」と聞いてみても答えられる子はまずいない。たとえ、幼稚園児でなくても高校生でも大学生でも「さか上がりができるのはなぜか?」「さか上がりができないのはなぜか?」「さか上がりができるようにするにはどうしたらよいか?」という質問に対して、論理的に答えられる人はほとんどいないであろう。
 このように、われわれはあるスポーツや技がたとえ上手にできても、それがなぜ上手にできるのかはわかっていない場合がほとんどと言ってよい。つまり、できていても、なぜできるのかはわかっていないし、わかっていなくてもできてしまうのである。「名選手必ずしも名コーチならず」という格言の一つの論拠はそのような「できること」と「わかること」の違いからくる。たとえ、名選手であっても、自分がなぜ上手に出来るのかを正しく理解する事は容易ではない。そのためにはグランド上ではなく、机に向かっての知的トレーニングが必要になってくる。
 一般に、「スポーツは上手な人なら教えられるはずだ」、「上手な人なら間違って教えるはずはない」と思われがちだが、そうでないことは以上のことから理解してもらえるであろう。確かに上手な人は実際に動いてみて示範を見せることはできる(上手な人でもその人の示範が理にかなったものであるかどうかは疑わしい。上手な人でも不合理な動きや変なくせを持っていることも少なくない。)しかし、本来なぜ上手に出来るのかがわかっていなければ、示範はできても人に教えることはできないのである。
 ところで、中・高の運動部では体育やスポーツに関する専門的知識や専門的トレーニングを受けていない一般の教員が教えているところが少なくない。少年野球や少年サッカーなどにおいても事態は同じである。そのような現状はまさに「自分は上手に出来るので、そのスポーツをよくわかっている」という錯覚(誤解)、や「上手に出来るので(昔、選手だったので)教えることが出来る」という錯覚(誤解)から生じている。
 それでは「できること」と「わかること」はどのようにちがうのか。以下、その問題について考えてみよう。
 発達心理学者のピアジェによれば、「わかりかた」は個体発生的には三つの段階を経て発達していくという。第一段階は「感覚運動的認識」に基づく「わかりかた」、第二段階は「心象的認識」に基づく「わかりかた」、第三段階は「概念的(言語的)認識」に基づく「わかりかた」である。生後まもない乳児は知覚と基本的な運動をたよりに、周囲の環境を感覚運動的レベルで理解していく。その後、「自己中心的言語」の発生および「心象的認識」が可能となる。すなわち、いまだ本格的な概念を有していない個人的な言語が出現し、目の前にないものを心象として保持できるようになる。さらに発達が進むと自己中心的な言語は本格的な一般性を持った概念となり、「概念的認識」に基づく概念(言語)的「わかりかた」が可能となってゆく。
すなわち、ピアジェによれば「わかりかた」には三つのレベルがある、ということになる。第一は「感覚運動的わかりかた」、第二は「心象的わかりかた」、第三は「概念的わかりかた」である。日常的な言葉の使い方では「君の言うことはよくわかる」とか「講義などがよくわかる」というのは、頭で、もしくは理論的にはよくわかるという「わかりかた」であり、それは「概念的わかりかた」に相当する。一方、「はっきりわからないがなんとなくわかる」とか、図にしてみるとよくわかる「わかりかた」は「心象的わかりかた」に相当する。そして、「なぜできるかはわからないが上手にできる」とか、できた瞬間「わかった!」というのは、からだでわかる「わかりかた」であり、それは「感覚運動的わかりかた」に相当する。
 このように日常的には「わかる」といっても様々な「わかりかた」が存在しながらも、それらをすべて「わかる」という同じ言葉で言い表している、ということに気づく。したがって、「わかっている」といっても、身体でわかっているのか、何となくわかっている程度なのか(この場合は、実はよくわかっていないことが多い)、頭でわかっているだけなのか、その「わかりかた」の中身が大きな問題となる。
 以上の考察から、「できる」というのは「わかりかた」の一種であり、それは一般的に言う「身体でわかる」、もしくは「からだがわかっているわかりかた」、すなわち「感覚運動的わかりかた」に他ならないということ、また、「できる」からといって、その運動に関して理論的に「わかっている」とは言えない、それらは全く別の問題である、ということを理解していただけたことと思う。
 ところで、新しいスポーツや動きを身につけるためには、そのスポーツや動きを知的に理解するだけでは不可能なことは言うまでもない。そこでは、からだで感覚的に理解していく、もしくは感覚運動的に新しい動きを獲得していくことが必要である。すなわち、「感覚運動的わかりかた」が重要になってくる。そのためには、すでに獲得している運動技能をたよりにしていくしかない。しかし、その運動技能では新しい課題を克服できないため、その運動技能を改造していくことにより、与えられた課題を克服しうる新しい運動技能を作り上げていく必要がある。
 以上の考察から、とにかく「できる」ためには概念的、すなわち理論的わかりかたは必要なく、「感覚運動的わかりかた」さえ身につけばよい、ということが言える。しかし、ここで誤解しやすいことは、できるようになるためには「概念的わかりかた」は役に立たない、と考えてしまうことである。結論的に言えば、役に立たないどころか、それは練習上、もしくはコーチング上、重要な役割を担うものである。スポーツは確かに「身体で覚える」ものであるが、その過程でひとはなかなか成果があがらない、とぼやく。それは考えることをせず、からだだけでおぼえようとするからにほかならない。確かにそれでも時間をかければ覚えられる。たとえば、模倣は乳児期からすでに見られるように、新しい動きを獲得するための基本的な手段の一つであることはまちがいない。しかし、模倣だけで新しい動きを身につけるには、その動きが複雑であればあるほど、また難易度が高ければ高いほど膨大な時間がかかるのである。
 それでは「できる」ようになるためには「概念的わかりかた」がどのように役立つのであろうか。その問題については次号で考えたいと思う。
 最後に、つけ加えておきたいことは、経験者(できる人)が自分の経験を教えようとする場合に陥りがちな危険性についてである。それは自分の経験が他の人にも有効である、と安易に判断してしまうことである。自分は壁うちや素振りを沢山やって上手になったから(経験上、そう思うから)、他の人にも壁うちや素振りは有効であるとか、自分はプロの人に教わったから、自分の教えることは間違いない、という独断である。自分は上手だから教えることができる、というのもそのひとつである。人に正しく、効率よく教えるためには出来るだけではだめで、理論的「概念的わかりかた」が重要なのである。そのためには、そのスポーツについての机の上での理論的トレーニングの質と量が問題となる。

「出来ること」と「わかること」
PARTU:できていくプロセス